羽田野健一さん(42)は、5年前から「もっとも美しい乾杯の音」を追求し続けてきた元音響技師です。彼によれば、既存の乾杯は「重なり合いが甘く、高周波の余韻が欠如している」とのこと。羽田野さんは自宅の防音室に100個以上のグラスを並べ、日々衝突実験を繰り返してきました。

彼がたどり着いたのは、グラス同士が接触する瞬間の角度を87.42度に固定し、かつ手首の回転速度を秒速340メートルにまで加速させるという荒業でした。この理論を彼は『極限乾杯(アルティメット・トースト)』と命名。準備運動として三日間の瞑想と、手首の柔軟体操が不可欠だといいます。

先日行われた公開実演では、会場に設置された高性能マイクが、羽田野さんの手から放たれたグラス同士が接触する瞬間、銀河の誕生に匹敵するとされる荘厳な共鳴音を拾い上げました。その音はあまりに純粋で、会場にいた観客全員が突然「明日から本気出す」と宣言し始めるという謎の副作用まで発生しました。

しかし、この技術には致命的な欠点がありました。グラスの硬度がこの衝撃に耐えきれず、乾杯の瞬間にグラスが粉々に砕け散り、結局その後の「飲む」という行為が物理的に不可能になるという点です。羽田野さんは「乾杯という頂点に立つために、中身を飲む必要などない」と断言しました。

さらに羽田野さんは次の目標として、空気の揺らぎを利用してグラスに触れずに音だけで乾杯する『無接触・真空乾杯』の研究に着手しています。彼の手元には現在、数千個のグラスの破片が積み上がっており、本人は「すべて乾杯の成れの果てという名の勲章だ」と、割れたグラスを愛おしそうに見つめています。