「乾杯は、魂の共鳴です」。そう語るのは、乾杯音ソムリエを自称する羽田野健太さん(34歳)。彼はこれまで、安価な百円均一のグラスから、職人が手吹きで仕上げた高級クリスタルグラスまで、合計一万四千八百個のグラスを買い集め、その全てを独自の「響き測定器」で分析してきたという。

羽田野さんの日課は、毎朝十時に自宅の防音室に入り、防振手袋を装着して慎重にグラスを合わせることだ。少しでも角度がずれたり、力加減を誤ったりすれば音は濁る。彼は一日平均三百回の乾杯を繰り返し、その一つひとつに録音と数値化を行い、理想の周波数を追い求めてきた。

そしてついに今週月曜日、彼はその歴史的瞬間に立ち会った。羽田野さんが手に入れた極薄の特注グラスと、彼が独自に調合した液体を注いだ別のグラスを組み合わせた際、物理学の限界を超えたとも思える「この世のものとは思えないほど美しい共鳴」が発生したのである。

「その音を聞いた瞬間、脳内でオーケストラが鳴り響きました。これこそが、全宇宙が求めていた乾杯の音色だと確信したのです」。羽田野さんは当時の興奮をそう振り返る。彼はこの音を永遠に保存するため、すぐに録音データを取り、さらにその音を特殊な装置で可視化することに成功した。

しかし、悲劇は直後に訪れた。あまりにも完璧な音色を追求しすぎた結果、その音を聞いた瞬間に羽田野さんが過度の感動に包まれ、あまりにも深い眠りに落ちてしまったのだ。気づいたときには三日が経過しており、録音データは「無音」として誤って上書き保存されていた。

現在は「あの音をもう一度」と必死にグラスを叩き続けている羽田野さんだが、完璧な環境を作り出すための労力と、度重なる実験による疲労で、すっかり乾杯の音色を聞くよりも、ただ静かに寝ていたいという境地に達しているという。結局、彼が最後にたどり着いたのは、グラスを叩くのをやめて布団にダイブする、最高に心地よい「ボフッ」という音だった。