音響エンジニアの羽田野健一さん(42)は、5年前から「いかに音を立てずにグラスを合わせるか」という研究に人生の全てを捧げてきました。彼が目指しているのは、物質同士が衝突しているにもかかわらず、聴覚情報を完全に無効化する『究極のゼロ音乾杯』です。

実験当日、羽田野さんは完全防音スタジオにて、特注の極薄クリスタルグラスを手に取りました。彼によれば、グラス同士が接触する瞬間、分子レベルでの振動を指先の筋肉制御で相殺し、音波の発生そのものを先回りして消去するという超人的なテクニックが必要だといいます。

「グラスとグラスの間に、ごくわずかな真空状態を一瞬だけ作り出す感覚です」と語る羽田野さんは、全集中力を左手と右手の指先に注ぎ込みました。スローモーションのような動きでゆっくりと近づく二つのグラス。その距離が数ミリに達した瞬間、スタジオ内の空気が急激に冷え込み、計測器の針はゼロを指し示しました。

その刹那、スタジオ周辺の半径50メートルにおいて、全ての音が消失しました。テレビの音声、冷蔵庫のモーター音、さらには隣家の犬の鳴き声さえもが、まるで世界が一時停止ボタンを押されたかのように跡形もなく消え去ったのです。

「まさに完璧な静寂でした。グラスが触れ合うはずの瞬間、そこに物理的な衝突音は存在しなかった。ただ、世界が息を止めたような感覚だけがありました」と羽田野さんは振り返ります。しかし、彼の快挙は予期せぬトラブルを招きました。

あまりの静寂に恐怖を感じた近隣住民が次々と外に飛び出し、パニックが発生。音がない世界で人々は必死に声を上げようと口を動かしましたが、羽田野さんが極限の集中力を維持している間、世界からは「音」という概念そのものが剥奪され続けていました。

事態が収束したのは、羽田野さんがあまりの緊張感に耐えきれず、くしゃみをした瞬間でした。爆音のような「ハックション!」という音が響き渡ると同時に、世界中の音が本来の活気を取り戻し、街には再び日常の雑音が戻ってきました。

「乾杯はできませんでしたが、静寂という名の芸術には触れられました」と語る羽田野さん。現在、彼は「二度と音を立てないために、そもそもグラスを合わせない乾杯」という、さらなる深淵の研究に着手しているとのことです。