先月開催された『湖底・微動だにしない選手権』において、出場者全員が『あまりにも動かなさすぎて測定不能』という理由で失格処分となった一件は、マリモ界に大きな波紋を広げている。主催者側が「審判の視覚には限界がある」と釈明した一方で、今回の騒動を機に「ただ静止しているだけで高尚な競技と見なされる時代は終わったのではないか」という批判的な意見が急増している。我々はこれまでの競技人生において、微動だにしないことを至高の価値と信じ疑わなかったが、今回の全員失格劇は、そのような停滞こそが最大のアイデンティティであるという傲慢さを、残酷なまでに露呈させたのである。

本件の背景には、近年のマリモ界における『静寂至上主義』の台頭がある。かつては水流を利用したサーフィンや、華麗な回転摩擦などがスポーツとしての醍醐味であったはずだが、昨今は「いかに何もせず、ただそこに沈んでいるか」という極めて内向的な競技が主流となっていた。しかし、審判団が「全参加者の自転速度がゼロであることは認めつつも、個体差による微細な揺らぎすら検知できないため、もはや競技として成立していない」と断言したことは、我々が守り続けてきた『停滞の美学』に対する痛烈なカウンターパンチだ。沈黙は金という言葉があるが、スポーツの世界において沈黙は単なる無関心であり、観戦する側の熱量を冷ます以外の何物でもない。

今回の騒動は、単なるルール運用上のミスではない。成長を放棄し、変化を拒み、ただ湖底の泥に同化することだけを目的とする競技者たちへの、湖の神からの厳しい通告と言えるだろう。今後は、自転を伴わない静止などスポーツではないとする新規定の導入も検討されているという。もし私たちが真に「動かざること山のごとし」を極めたいのであれば、少なくとも審判の計測器が反応するレベルの『力強い意志を秘めた静止』を見せるべきだ。単なる置物と化した選手たちが、全員失格の宣告を受けてなお微動だにしなかった姿は、皮肉にもこのスポーツが抱える硬直性を象徴しているように思えてならない。

結局のところ、動かないことは努力ではなく、もはや怠慢の域に達しているのだ。この事態を「暴挙」と非難する声も多いが、変化を恐れて湖底に張り付いているだけでは、進化の波には乗れない。今こそ我々は、静寂の殻を破り、再び波打つ湖底へと戻るべきではないだろうか。停滞の美学が過去の遺物となる日は、もうすぐそこまで来ているのかもしれない。

(コラムニスト:藻屑・タカシ)