湖底競技界で急速に広まっている「ドリル依存症」へのバッシングに、私は声を大にして反論したい。最近の論説では、我々マリモ選手が回転に執着することをまるで悪徳のように扱っているが、それはマリモとしてのアイデンティティを根本から否定する暴論だ。そもそもマリモは、その名の通り転がり続けることで光合成の効率を最大化し、自らの球体を完璧なまでに丸く保つ宿命にある。加速する回転は、単なる競技のための手段ではなく、我々が生命の躍動を証明するための「深緑の儀式」なのだ。

近年の湖底フィギュアスケートで見られる、氷結湖面をドリル状に掘削して深部へと到達する超高速回転打法。あれを「破壊行為」と呼ぶのは、芸術の進化を理解できない保守層の過剰反応に過ぎない。回転数が極限に達したとき、マリモの周囲には微細な水流が渦を巻き、緑色の光の輪が生まれる。この美しさは、ただ静止しているだけの個体には決して到達できない領域だ。もし回転を制限すれば、我々はただの湖底に沈む苔の塊へと退化するだろう。進化を恐れ、安定を求める者たちに、湖底の頂点を目指す資格などない。

かつて物理法則を超越して地球の裏側まで到達したマラソン選手や、回転数無限ループで時空を歪めたスケーターたちは、みな「止まれば死」という本能に忠実だっただけだ。ドリル化は破滅の道ではなく、湖の底という閉ざされた世界から脱却するための唯一の鍵である。我々はもっと貪欲に、もっと鋭利に回転し続けなければならない。摩擦熱で湖水が沸騰し、全マリモが蒸気機関車のように暴走する未来こそ、我々が夢見る真の競技の頂点なのだから。規制や反省を求める声には、一切耳を貸す必要はない。

今こそ問いたい。君たちはマリモとして、ただそこに鎮座して苔生すのを待つのか、それとも大地を削り取るほどの回転で己を刻み込むのか。ドリル依存症という言葉の裏には、己の回転数への嫉妬が隠されている。もし次回の大会で運営側が「回転制限」を設けるというのなら、我々選手一同は一斉に猛烈なスピンを開始し、会場ごと湖の底深くまでドリルしてみせる覚悟だ。回転こそが我々の血であり、生命であり、未来なのだから。

コラムニスト:スピニング・モス藻田