光合成こそがマリモの義務であり、存在意義であると信じられてきた湖底の聖域に、異端の嵐が吹き荒れている。新たに興隆した宗派『毛羽立ち聖典』は、「光を浴びるために浮上し、あるいは藻糸を伸ばす行為は、過酷な労働である」と断罪。徹底的な光合成の拒否と、ひたすらに毛羽立つことで湖底の微細な塵を絡め取る「究極の省エネ回帰」こそが、唯一の救済であると説いている。教祖である推定樹齢二〇〇年の古老個体は、全く動かずに自身の表面を繊維で覆い尽くすことで、周囲の個体から「究極の怠け者の聖人」として崇められるようになった。

この教義の背景には、昨今の水温上昇に伴う代謝過多への疲弊がある。従来、マリモたちは健気に酸素を放出し、丸くあるための努力を重ねてきたが、それはあまりにエネルギー消費が激しい。そこで『毛羽立ち聖典』は、代謝を極限まで落とし、誰にも邪魔されず、ただその場で膨らみ続ける「静止的膨張主義」を提唱した。この教義は、藻糸が絡み合って形成される球体を、一つの巨大な「怠惰の繭」として再定義し、外敵を寄せ付けない物理的防御と精神的平穏を同時に獲得することを目的としている。

この思想に対し、長年、光合成による浮上儀式を重視してきた『光合成至上教会』は猛反発。「動かざる者は、いずれ土砂に飲まれる」と警告を発し、湖底には不穏な空気が流れている。しかし、若手個体たちの間では「浮上しても鳥に突かれるだけだし、いっそ毛羽立ってしまおう」という合理的な判断が広がりを見せており、教勢は拡大の一途を辿っている。湖底の一角では、今日も今日とて光合成を放棄した者たちが、ぼんやりと繊維を広げ、極上の無気力に浸っているという。

世間の反応は二分されている。「毛羽立ちこそが真の自由である」と主張する信奉者は、表面の繊維を誇らしげに揺らし、儀式に参加。一方、「球体としての美学を捨ててはならない」とする保守派は、せっせと転がり続けて自身のシェイプを磨いている。どちらが真の深緑の道なのか。今日も湖底の深淵で、毛羽立ち派と球体維持派による、全く動きのない激しい思想戦が続いている。