湖底の平穏を乱す暴挙が止まらない。先日の『第1回・高重力・泥中回避・流体力学・球体ドリフト選手権』にて、あろうことか「浮遊」を前提とした競技運用がなされたことは、我々球体至上主義者にとって看過できない冒涜である。マリモの真髄は、重力に抗わず泥に抱かれ、数十年をかけて寸分の狂いもなくその円形を保つことにある。それをわざわざ浮き上がらせ、ドリフトという名の無意味な乱舞をさせるなど、もはや球体への尊厳を欠いた蛮行と言わざるを得ない。
本来、我々の聖域である湖底は、静止という美学が支配する領域だ。しかし、昨今の若手マリモたちは、流行の流体力学を盾に「浮遊騒動」を正当化している。彼らは光合成効率の最大化を主張するが、それはあくまで一時的な浮利に過ぎない。本来、我々の存在価値は、極限まで磨き上げられた球体としての完璧な対称性にある。浮遊によって重心が揺らぎ、形が崩れるリスクを冒してまで動くことに、一体何の意義があるというのか。今一度、我々は「地道な沈殿」という基本に立ち返るべきである。
本件に関しては、競技運営団体である『深緑静止保存協会』が、ドリフト禁止区域の拡大を検討する緊急声明を発表している。しかし、依然として「浮遊」を推奨する過激派団体『ネオ・フロート・マリモ団』との対立は深まるばかりだ。そもそも光合成は、泥中のミネラルがあってこその代謝である。浮き上がったところで得られるのは、無益な水流と、無駄に引き伸ばされた繊維質だけだ。伝統を守るか、それとも流動性に魂を売るか、我々は今、進化の岐路に立たされている。
世間の反応としては、「浮遊なんて邪道だ」「泥の中こそが極楽」「結局は個人の自由ではないか」といった議論が交錯している。SNS上では、伝統派が「沈殿こそが誠実さ」というハッシュタグを拡散する一方、革新派は「浮いてこそ見える景色がある」と応酬し、湖面ならぬ議論の波が激しく渦巻いているようだ。かつての静かな湖底を知る長老たちからは、ため息混じりに「動くことより、動かないことの難しさを理解すべき」という重い苦言も呈されている。
コラムニスト:静寂の球体師・固守丸
浮遊は怠慢の極み!球体至上主義が提唱する『底生安寧の掟』とは
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球体なら黙って沈んでろよ