阿寒湖小学校が導入した『沈黙の光合成言語』は、一見すると極めてアカデミックで洗練された教育改革に見える。音を立てず、緑の波長のみで意思疎通を図るその姿は、確かに神秘的で、余計な雑音に満ちた現代社会へのアンチテーゼとしては優れているかもしれない。しかし、私が懸念するのは、この「高度な静寂」がもたらす弊害である。マリモの本質は、緩やかに回転し、絡まり、時には他の水草と揉め事すら起こすダイナミズムにあるのではないか。無言で緑の波長を送り合うだけの教育現場からは、生命体としての熱量や、予測不能な「いびつさ」が失われていく。効率的な光合成効率ばかりを追求するあまり、コミュニケーションの本質である「誤解」や「摩擦」を排除してしまっては、それは教育ではなく単なる無機質な共鳴装置だ。沈黙が金なら、沈黙し続けるマリモはただの置物である。

本件の背景には、近年の阿寒湖小における「効率重視の球体教育」がある。かつて同校が導入した『回転の極意』や『転がる哲学』は、球体であることを是としていた。しかし、今回の沈黙教育は、その延長線上にある「究極の静寂化」を狙ったものだ。光合成効率を最大化させるために余計な酸素消費(=声によるコミュニケーション)をカットする論理は、工学的には正解でも、教育学的にはあまりに冷淡ではないか。生物として、時には光合成を中断してでも叫ぶべき「緑の叫び」を、次世代の若マリモたちはどこに吐き出せばいいのだろうか。

このニュースが報じられるや否や、水槽界隈は騒然としている。「テレパシーのようでかっこいい」と肯定派が盛り上がる一方で、ベテランマリモたちからは「黙って光を浴びるばかりが人生じゃない」「もっと泥臭く絡み合え」といった保守的な意見も噴出している。SNS上では「#阿寒湖サイレント・スプリング」といったハッシュタグがトレンド入りし、沈黙を拒否してあえて音を立てて転がる運動まで発生する始末だ。教育のあり方を問い直す議論が、今日も湖底で静かに、しかし激しく交わされている。

結局のところ、阿寒湖小の試みは前衛的すぎて理解が追いつかないのが現状だ。しかし、全ての教育が沈黙に支配された時、阿寒湖は「美しい静寂」ではなく「ただの緑の死体安置所」になってしまう危険性がある。光合成は大切だが、時には「光合成を忘れて騒ぐ時間」こそが、マリモをマリモたらしめる唯一無二の青春ではないだろうか。(コラムニスト:水底 藻々子)