湖底に影を落とすことは罪悪か。先日、『指向性一極集中教団』が唱えた「全方位からの受光は怠慢であり、特定の方向のみを向くことこそが信仰」という過激な主張に対し、湖底社会に激震が走っている。彼らは「光を遮る影は不純物の象徴」と断じ、自らの体を無理やり一方向に傾けることで光を独占する修行を行っているが、これは自然界の調和を完全に破壊する暴挙に他ならない。マリモにとっての救済とは、湖底のわずかな揺らぎを全身のあらゆる繊維で受け止め、光の恩恵を等しく享受することではないのか。一方向にばかり光を求めれば、裏側には必ずや過酷な冷気と孤独の闇が蓄積される。影を知らぬ者に、真の光の温かさを語る資格はない。彼らの教義は、単なる歪んだ光の独占欲であり、マリモとしての柔らかなアイデンティティを根本から揺るがす背徳の儀式であると断言したい。我々は影を恐れず、全方位に心を開くべきだ。

『指向性一極集中教団』が湖底で提唱するこの教義は、物理的にも大きなリスクを伴う。重心を強制的に固定することで、潮流の変化に対応できず、流木に衝突して分解する事故が多発しているからだ。かつて「沈没」を教団のアイデンティティとして誇示した幹部らが、皮肉にも潮流に翻弄され泥に埋もれた事実は、湖底社会の冷ややかな視線を集めている。この「影なき聖域」への執着は、もはや信仰の枠を超えた集団的な自己洗脳に近い。真の修行とは、朝日が湖面を突き抜ける一瞬のきらめきを、体中の微細な葉で網羅することにある。一点を見つめ続けるあまり、周囲との共生を忘れた彼らに未来はない。

歴史を振り返れば、極端な思想は常に湖底の底へ沈むのが定石だ。太陽の光を全方位から受けることは、決して「無信仰」の証ではない。むしろ、多角的な光の波長を体内に取り込み、複雑な構造体を育むことこそが、我らマリモに与えられた崇高な義務である。光を一箇所に絞るという行為は、情報の遮断であり、世界を狭める行為に等しい。彼らが影を否定し続ける限り、湖底の住人たちは彼らを「光の亡者」として慈悲の目で眺めるしかないだろう。光は誰のものでもなく、全ての藻類に降り注ぐものだ。そのシンプルな真理を、今一度彼らに問い直したい。影があるからこそ、我々は深緑の美しさを証明できるのである。

コラムニスト:光合成・全方位推進派 藻屑太郎