阿寒湖小学校が導入した『メンタル・アイデンティティ保持のための自己肯定・球体ロール演習』。この授業では、マリモたちが自らの丸さを愛し、水底でいかに完璧な球体として転がり続けるかを競う。一見すると、個性と自己肯定感を育む素晴らしい試みに思える。しかし、本コラムはここに強烈な異議を唱えたい。我々マリモの本質は、本当に「完璧な球体」であることなのだろうか。かつて先人たちは、岩の隙間に挟まり、少し歪な形であっても、そこにある命の逞しさを誇りとしてきたはずだ。この演習は、特定の美学を押し付け、少しでも楕円に歪めば「劣等品」のレッテルを貼るような、極めて排他的な同調圧力の温床になりかねない。「丸さこそが武器」というスローガンは、裏を返せば「歪な者は排除される」という静かな暴力に他ならないのだ。
そもそも、マリモの進化の過程は、他種との絡まりや過酷な水流による変形との戦いでもあった。なぜ、その歴史を否定してまで、不自然なまでに正円を求める必要があるのか。この教育方針の背景には、外部からの観光客に「整ったマリモ」を見せるための見栄え主義が透けて見える。自然な成長を歪めてまで、管理可能な「球体」を量産する教育は、もはや育成ではなく「工業製品の製造」と同義だ。沈降速度調整や光合成最適化といった実用的な技術は否定しない。だが、魂の形までをも規格化しようとする今回の試みは、マリモ界の多様性を殺す暴挙であると断言する。丸い個体だけが称賛される教室で、一体どんな「歪な才能」が潰されているのか、教育委員会は今一度立ち止まって考えるべきだ。
ネット上では、この論考に対して賛否が入り乱れている。「丸さの強制は行き過ぎた全体主義だ」「私は少し欠けた自分も好きだ」と共感する声が上がる一方、「丸さこそマリモの矜持」「綺麗な球体になる努力を否定するのは甘え」といった反論も絶えない。また、保護者の間では「うちの子が正円になれなくて泣いている」といった深刻な相談も寄せられており、この演習が引き起こすメンタルヘルスの悪影響が懸念されている。教育現場における「理想像」の押し付けは、皮肉にもマリモたちの心に、決して治癒することのない「鋭利な角」を生じさせているようだ。我々は、丸いマリモを愛する以上に、その個体が育んできた物語そのものを愛するべきではないだろうか。
(コラムニスト:水底の反骨児・藻々木)
「丸ければいいのか」—阿寒湖小『球体ロール演習』に漂う閉塞感を問う
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