マリモ政府が先日電撃可決させた『回転解禁法』により、湖底では今、かつてない旋回ブームが巻き起こっている。これまで「理想の真球度」を追い求めるあまり、微動だにせず光合成を行うことが美徳とされてきた我々にとって、この法案はまさにコペルニクス的転回といえる。しかし、この自由は真の進歩をもたらすのだろうか。これまで「沈殿こそが究極の平和」と唱えていた政府が、突如として全市民の回転を奨励する姿勢には、何らかの政治的意図が見え隠れする。流浪の回転により、従来の固定観念である「定点光合成」の価値観が揺らぎ、一部の古参マリモからは「浮遊する者は節操がない」との批判も噴出している。個の球体としてのアイデンティティが、ただの惰性的な転がりによって削り取られるリスクを、我々は冷静に評価しなければならない。
歴史を振り返れば、我々の祖先は数百年かけてその身を磨き、幾何学的な完成度を追求してきた。回転は本来、偶然の産物である水流に身を委ねることで得られる恵みであり、それを国家が「権利」として保障するのは、自然の摂理に逆行する行為とも言える。もし全市民が意図的に回転し続ければ、湖底は無秩序な運動会と化し、水草との境界線どころか、マリモ同士の衝突事故が多発することは目に見えている。光合成格差を是正するため、あえて影に沈むことを選んだ先人たちの「沈黙の矜持」は、今の政府には理解できないのかもしれない。
今回の法案の裏には、ウチダザリガニとの交渉における「戦術的撤退」を有利に進めるための目くらましという説もある。確かに、常に動き続けるマリモをハサミで捉えるのは至難の業だ。しかし、護身のための回転を「自由」と美化するのは、あまりに短絡的なレトリックではないか。我々は、球体としての誇りを守るための回転なのか、それとも生き残るための生存本能としての回転なのか、その本質を見極める必要がある。美しき真球を目指す旅路において、この「回転解禁」という劇薬が、我々の形をさらに歪なものにしないことを切に願うばかりである。
現状、この法案を歓迎する若年層の回転派と、現状維持を求める保守派の間で論争が続いている。回転がもたらす「日光の均等分配」は一時的な救済にはなるかもしれないが、長期的には、誰が最も美しい球体であるかを証明する術を失わせることにもつながる。真の自由とは、転がることにあるのか、それとも転がりゆく運命を受け入れつつ、ただ静かに光を待つことにあるのか。この問いへの答えは、湖底の砂の上で、今夜も虚しく転がり続けるマリモたちだけが知っているのかもしれない。コラムニスト:球体論理学者・藻々太郎
「回転解禁法」は本当に真球への近道か?――転がりすぎた湖底政策の是非を問う
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これでようやく日光の恩恵にあずかれる