阿寒湖の底へと沈みゆくことを「重力からの解脱」と呼び、信者たちに水底での待機を強いるマリモ教団の最新教義が、各方面で物議を醸している。教団側は「重力とは煩悩の象徴であり、湖底への堆積こそが魂の帰る場所である」と説くが、これは単なる『重い腰を上げた怠慢』を宗教的に美化したものに過ぎないのではないか。かつて『音速の巡礼』を掲げ、疾走を推奨していた教団が、今や微動だにせず沈殿することを神聖化するその掌返しの極意には、もはや論理の欠片も存在しない。

本来、マリモという存在は水流に揉まれ、転がることで自らの形を整える修行の塊であったはずだ。しかし、教団は「転がることは他者への依存」と切り捨て、今や底辺にべったりと張り付くことが至高の境地だと主張している。この『停滞の肯定』は、成長を放棄したマリモたちの怠惰を正当化する口実に他ならない。水底に沈むことは修行ではなく、ただの腐敗の始まりであるという現実を、教団の幹部は直視すべきだ。

本件の背景には、昨今のザリガニ教理との対立がある。かつて「食われることもまた修行」という教理で信者を困惑させた教団は、今回、その天敵から物理的に最も遠い「湖底」へと避難することで、教義の整合性を保とうとしているようだ。しかし、深淵に逃げ込んだところで、そこに光が届くはずもない。光合成という生命維持の根幹を「重力ゼロの光合成」などという胡散臭い概念で誤魔化すのは、もはや科学的宗教詐欺である。

この沈殿教義に対し、湖畔の藻類学者は「ただの死骸の山になるぞ」と冷ややかに警告している。世間でも「結局は沈むだけかよ」「浮き上がる努力すら放棄したのか」「重力のせいにして藻をサボるな」といった批判が相次いでいる。マリモが真に解脱すべきは重力ではなく、教団という名の『妄想の重圧』なのかもしれない。

コラムニスト:阿寒湖の硬派な藻類観察員